統計調査が見つけ出すのは均質的なものだけである。統計調査は、自己が属しているシステムを再生産するのであって、日常性のパッチワークを織りなす非均質的な操作や話の数々がどれほど繁殖してゆこうと、そんなものは自己の領域の外に放置しておく。
コクラス(ギリシアの雄弁家)によれば、ソフィストたちは「弱い」立場を「強い」立場に変えることをみずからの原理とし、機をとらえるすべを心得ることによって、力を逆転させる術を備えると称していた。
われわれの社会は、視覚を癌のように異常繁殖させ、どんな現実だろうと、見せるかどうか、あるいは見えるかどうかによってその価値をはかり、コミュニケーションを目の旅に変えてしまう。それは、目の叙事詩であり、読むという欲動の叙事詩である。 経済そのものが「記号の支配体制」に変貌していて、読むことをますます肥大化させている。
読むという活動は、ことば無き沈黙の生産にそなわるありとあらゆる特徴を占めている。その時ひとは、ページをよこぎって漂流し、旅する目はおもむくままにテクストを変貌させ、ふとしたことばに誘われては、はたとある意味を思いうかべたり、なにか別の意味があるのでは?と思ってみたり、書かれた空間をところどころまたぎ超えては、つかの間の舞踏を踊る
・感想メモ
弱者にとっての、日常的実践(読むこと、歩行、レトリック、、、)には権威や秩序に抗うひらめきが備わる。上野学さんの『モードレスデザイン』と関連して読むことで「こうかも?」という自分なりの理解ができてきた。モードの中であっても人は、自由であることを選べるのかもしれない。現代文の小説のテストなんかがいい例。問題を作る人と解答する人には明確な秩序(強いもの-弱いもの)がある。その意図から脱落した、登場人物の気持ちを感じ取るのも一概に悪いものではない。(と、過去の自分をあまやかす。)
