問い 問い

私たちは、創造しているのか。反応させられているのか。

2026.09.03

ミヒャエル・エンデの『モモ』に、モモがしゃべる人形と出会う場面があります。
人形は、キーキーした声で決められた台詞を繰り返します。モモが何を語りかけても、本当の意味では応えてくれません。

モモは思います。

この人形が何も言わなければ、もっといろいろなことを想像できるのに。もっと会話を続けられるのに。
何もしゃべらない人形には、余白があります。
子どもが声を与え、性格を考え、物語をつくることができる。不完全だからこそ、人間の想像力が働きます。
ところが、しゃべる人形は完成されすぎています。遊び方も台詞も、あらかじめ決められている。

それほど面白いわけでもないのに、モモは催眠術にかかったように目を離せなくなります。
この場面は、現代のSNSやショート動画、そして生成AIにもつながっているように思います。
次々と何かが提示され、すぐに反応が返ってくる。退屈する暇も、沈黙する時間もありません。
けれど、刺激を受け取り続けることと、満たされることは違います。

「夢中になっている」のか。
「注意を奪われている」のか。

「自分で問いを生み出している」のか。
「提示されたものに反応しているだけ」なのか。

同じ画面を見ていても、そこにはまったく異なるモードがあります。
私たちの創造性は、情報が足りないときよりも、情報や応答が多すぎるときに失われるのかもしれません。
モモの力は、たくさんしゃべることではなく、相手の中から言葉が生まれるまで聴くことでした。

すぐに答えを与えないこと。
沈黙を埋めないこと。
まだ名前のない感覚を、急いで言葉にしないこと。

その余白から、対話や遊びや創造が始まります。便利な道具を手放す必要はありません。
ただ、ときどき立ち止まって確かめたい。

いま私は、道具を使って世界をつくっているのか。
それとも、道具に反応することで時間を使わされているのか。

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