備忘録的にメモを残します。
「みる」という言葉は、日本語では非常に不思議な存在です。音としては同じ「みる」でありながら、
見る
観る
視る
診る
看る
のように、漢字によって意味や態度が変化します。つまり、日本語の「みる」は、音だけでは意味が固定されません。しかし、文脈や関係性、声のトーン、表情、場の空気などが与えられることで、次第に意味が形作られていきます。これは、日本語が「関係性の中で意味が立ち上がる言語」であることを示しているように感じます。
日本語のみるの広がり
| 日本語 | 近い英語 | ニュアンス |
|---|---|---|
| 見る | see / look | 目に入る、視線を向ける |
| 観る | observe / contemplate / appreciate | 注意深く観察する、味わう |
| 視る | perceive / discern / envision | 本質を捉える、見抜く |
| 診る | examine / diagnose / assess | 状態を分析・診断する |
| 看る | care for / attend to / watch over | 世話をする、寄り添う |
同じ「みる」でも、そこには、
距離感
意図
関与度
身体性
責任
時間感覚
などの違いがあります。
英語は「行為」を分割する
英語では、日本語のように音を共有するのではなく、行為そのものを単語として分割しています。
たとえば、
- see = 見える
- look = 見ようとする
- watch = 動きを追う
- observe = 注意深く観察する
- perceive = 背後を知覚する
のように、それぞれ異なる動詞が与えられています。それにともない音も与えられているので、会話においても意味を固定できます。つまり、英語では、発話の時点で「どう見ているか」を、ある程度固定して伝えることができます。便利です。
会話の例:映画を「みる」の違い 日本語と英語比較
たとえば日本語で、
「あの映画みた?」
と言われても、
- ただ鑑賞したのか
- 内容を深く味わったのか
- 考察したのか
- 流し見したのか
は分かりません。
聞き手は、
- 声のトーン
- 表情
- 関係性
- 文脈
から推察します。
日本語は、「察する」ことを前提にしている側面があります。
一方で英語では、
- see a movie
→ 映画を見た(事実) - watch a movie
→ 映画を観た(内容を追った)
のように、動詞の段階でニュアンスをある程度指定できます。前提として、お互いがニュアンスを知っていることがある気がしますが、意味の齟齬はおきにくいのだろうなと思います。

ここでは、気になった「視る」と「看る」に焦点をあてます。
「視る」は構造を見る
特に興味深いのは「視る」です。これは単なる vision ではなく、
表面ではなく、構造や本質を捉える
という東洋的・禅的な含みがあります。そのため英語では単語一つで完全対応しにくく、
- perceive deeply
- discern patterns
- see beyond appearances
など、複数語で説明する必要があります。
「視る」は、情報を見ることではなく、
- 背後の関係性
- パターン
- 構造
- 流れ
を捉える行為に近いのかもしれません。
「看る」は身体性を伴う
興味深いのは「看る」です。この看るという漢字をじっくり観察すると、「手」と「目」が含まれています。これは単に視覚で確認するだけではなく、
身体性を伴って相手に関与する
という意味を持っています。
だから「看る」は、
- 医療
- 介護
- 教育
- 子育て
- 伴走
- 見守り
などに使われますし、忘れてはいけないのは、身体性なんだなと。
英語では、
- care for
- attend to
- watch over
- be present with
などが近いですが、日本語の「看る」には、
その場に居続ける・包み込む
ような独特の含みがあります。
日本語は「統合」、英語は「分割」
日本語は、「みる」という音の中に多義性を抱え込みます。英語は、それを用途ごとに分割していきます。
英語だと、
- see
- observe
- diagnose
- watch
は完全に別音です。
しかし日本語は、
別々の漢字を、
同じ音の中へ畳み込んでいます
抽象度が高く、情報量が多い言葉です。
観省庵の「観」の先へ
観省庵という屋号には、「観る」と「省みる」があります。
しかし、「みる」という言葉全体に立ち戻ると、
- 見る
- 観る
- 視る
- 診る
- 看る
は、互いに分離したものではなく、人間の認識行為の連続体のようにも見えてきます。
そして、
- 日本語的な統合された「みる」
- 英語的な分割された「みる」
を往復することで、
人は何を、どのように認識しているのか
を立体的に捉えられるのかもしれません。そしてその意味することは
存在(もの・こと)との向き合い方
があるようにも感じます。
「みる」という1音の中に、
- 観察
- 診断
- ケア
- 洞察
- 見守り
まで同居できる。日本語って面白いなと思います。
観察という言葉にこれまでアンテナがたっていましたが、もうすこし広く「みる」を理解していきたいです。
P.S
日本語については下記の記事も面白かったです。
参考
日本語と日本人(第1回―総論)―主語を使わない日本語―
主語を使わない日本語
現在放映中のNHKドラマの主人公、紫式部が書いた源氏物語にはおよそ主語は登場しない。当時の人々には敬語の使い方によって、だれが話しているかは一目瞭然だったからだ。「光る源氏」(帚木巻)というのも「光る君」(桐壺巻)というのも主人公をめぐる「世間」での評判・噂を凝縮したあだ名だったのであり*3、主人公やその相手方が名乗ったり呼んだりしたものではなかった。なお、最初に申し上げておきたいのは、今日、世界を席巻しているのは主語を使う英語であり、公的な国際会議でもビジネスの世界でも、効率的なコミュニケーションを行うためには英語を用いることが不可欠になっているが、実は世界の言語の中で、英語のように主語を使う言語は少数だということである。世界では今日6000ほどもの言語が話されており、うち160余りが主要言語とされているが、主語を使うのは欧米の10ほどの言語と中国語くらいなのである。例えば、ギリシャ語やラテン語*4では主語はほとんど使われないし、かつては英語でも主語は使われていなかった。英語が主語を使うようになったのは近世になってからのことなのである*5。
日本語が主語を使わないことのわかりやすいケースが愛の告白だ。これは、日本語には主語がないということを早くから指摘していたカナダ在住の日本語学者の金谷武洋氏が講演などの例示で取り上げておられることだ。日本語では、異性に愛を告白する時には、贈り物をしたり、レストランでご馳走をしたりと雰囲気を盛り上げたうえで「好きだよ」とだけ言うのが普通だ。主語を使って「私は、あなたが好きです」などと言ったのでは、相手は学校の先生から講義を受けているような気分になって、考えさせてくださいということにもなりかねない。日本人には、「好きだよ」だけで十分なのだ。主語を使うなどという無粋なことをしては雰囲気を壊してしまう。主語を使わなくても何の不自由も感じないし、むしろ使わないことによって「雰囲気」に合わせた細やかなコミュニケーションを実現しているのだ。そこには、「私は」という主語や「あなたが」などという目的語は登場せず、「愛」という感情を自分と相手とで共有したいという願望を表す「好きだよ」という言葉だけが直截に表現される。それは、自分(I)の「好きだ」という能動的、意図的な行為(love)ではなく、「好きだよ」という状況をある意味で自分も受動的に認識している*6。その状況を相手にも共有してもらいたいという願望を表しているのだ。それに対して、英語の“I love you”では、「私(I)」という主体からの「あなた(you)」という客体への「好きだ(love)」という感情の能動的な働きかけが表現されている。「愛」という感情を相手と共有しようという願望ではなく、「好きだ」という自分の感情を相手に受け入れてもらいたいという願望が表現されているのだ。
何か小難しくてよく分からないと言われそうだが、その違いは日本と米国の恋愛映画の典型的なクライマックス・シーンを思い浮かべてみれば分かりやすいという。すなわち、日本の恋愛映画のクライマックスでは、愛する二人が同じ方向、例えば浜辺に立って沈む夕日を眺めているというような光景で終わりになるが、ハリウッド映画では、お互いに見つめ合って、次の瞬間、燃えるようなキスを交わし、そこで「The End」という文字がスクリ-ンに現れるというのだ。
